eve-a60’s blog

ロンドンでの3年間の大学生活を記録したもの。

Fight! 闘え。(後編)

 

 

 

 

ブログの存在を綺麗さっぱり忘れて7月を過ごしていた私です。お許しください、こんにちは。

 

 

 

最近、知人の紹介で派遣の仕事に就くことができました。有り難いです。

 

やはり、コネクションが一番手っ取り早くて着実 (悪い顔)

 

 

 

前記事でお話ししたスーツケースが盗まれた話は、1ヶ月過ぎればもうただの笑い話です。立ち直りの早さで世界新記録を更新したい、と切に願う今日この頃です。

 

 

 

 

余談ですが、スーツケースが盗まれた後も(順調に?)幾つかのプチハプニングに遭遇しました。

 

 

 

ヒースロー行きのバスを午後4時ではなく誤って午前4時で予約していたことが発覚したのでチケットを買い直したり、空港内のチケット発券マシンがシステムエラーを起こしたのかいつまで経ってもパスポートを読み取ってくれなかったり、乗り換え地点になる広州の空港では無料で一泊できるtransit hotel のガイドさんが予定時刻を過ぎても一向に現れずヒヤヒヤしたり......

 

 

更に恐ろしいのが、これら全てを解決してホテルにたどり着いた頃には、

 

 

 

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自分がすっかり元気になっていたこと。

 

 

 

こわっ。

 

 

 

夜の10時頃にホテルに到着し、その後3時間近く親とのビデオ通話、ルームツアー、DVD鑑賞、読書を楽しんだ自分に是非ともお尋ねしたい。何故、寝ようとしない?

 

 

 

高山病になった人の特徴として、「突然ハイテンションになる」というのがありますが、おそらくそれと同じ仕組みなんでしょうね。 

 

 

 

私は肉体の疲労度が一定を超えると、恐ろしいほどハイになります。ディズニーから退園する際に私が饒舌になるのは、日中に体力を保持していたからじゃない。純粋に疲れたから。修学旅行で夜中に理由もなく一人ケタケタ笑っているのも、疲れたから。バイト終わりのカラオケでアップテンポな歌ばかり選ぶのも、疲れたから。

 

 

 

 

怖いね。ここまで来るともはや、怪奇現象。

 

 

 

ちなみに、「疲れた」を連呼している時はさほど疲れていない。

 

 

 

 

 

何はともあれ、日本に無事戻って来れて良かった。近所の鉄道工事がだいぶ進んでて良かった。友達の就活が終わってたのも、良かった。

 

 

 

 

 

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母とブランコで遊んだのは、予想外だった。

 

 

 

 

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河童忌に芥川さんを訪ねて近況報告をする、という本懐も遂げることができて満足。

 

 

 

芥川さんの暮石前に花束を供えながら、高三の夏、進路が定まらずにいた自分がこの場所で「芥川さん、私は一体、これからどうすればいいんでしょう?」と1時間近く進路相談(と言えば響きが良いが実際はただ墓場で自問自答していただけ)をしていたことを追憶しました。

 

 

 

芥川さんに相談してから突然留学を決意した

 

 

 

というのは表面的には事実であり、実際私が海外の大学に興味を抱き始めたのは河童忌から数日後のことでした。

 

 

 

しかし、だからと言って、芥川パワーで「留学」というアイデアが突然私の頭上めがけて舞い降りてきたんだ、とは解釈して欲しくない。

 

 

 

というのも、私はそれ以前から、色んな人に進路についてのアドバイスをもらっていました。

 

 

高一の時にはあるカウンセリングの先生から、「もしかしたら、あなたにはアメリカとか、海外の教育システムの方が向いているのかもしれない」と留学の話を既に持ち出されていましたし、

 

 

 

母親からはよく「そうやって、ウジウジ引きこもってるくらいなら、どこか違う国でも見て来なさい。いつまでも、そうやって自分の世界に閉じこもってるつもり? そんな狭くてつまらない世界で生きるのは、もうやめなさい」と叱られていました。

 

 

 

 

だから、「留学」というアイデアは私の身近に常に存在していたんです。

 

 

 

私がなかなか「何が何でもこの鬱々とした現状を変えてみよう!」と決意できるほどの勇気を持てないがために高三の夏まで自らの恵まれた環境に気づかなかっただけで、本当は色んな人に随分前から後押しされていたんです。みんなの「声」が私の中に蓄積されていて、私はそれをもっと素直に受け入れるべきだった。

 

 

 

でもね、高校生ってどうしても捻くれたがるじゃないですか?

 

 

 

大人なんてどうせみんな、その場凌ぎの綺麗事しか吐かない

 

 

 

みたいに考えてて、他人の声をシャットダウンしちゃうんですよね。

 

 

 

 

私は特に人間不信で厭世的な考えを好む傾向が強いので(あ〜、もう、自分で認めちゃったよ)、高校時代は同級生からよく「流石、万年厨二病!」とからかわれていました。

 

 

 

 

 こうして振り返ると、自分のこれまでの人生がいかに他者ーー特に家族から授かったものであるかが浮き彫りになってきます。

 

 

 

 

辛辣な言葉で長いこと私の考えを否定してきた両親は、結局私のやりたいことをやらせてくれました。

 

 

 

 

もう、なんなんだよ! じゃあ、最初から私の夢を応援してよ! そしたら、無理に好きなことを手放そうとしなかったのに。

 

 

 

と不満を言いたくもなりますが 笑

 

 

 

この不器用さからして、流石我が父と母。

 

 

 

 

 

このように私はまだ、誰かに支えてもらう生き方しか知りません。

 

 

 

自分自身の実力に関しても、まったくの無知です。

 

 

 

自分に実際どれだけの ability または talent があるのだろうと気になっている反面、正直それを知るのが怖いと思ってしまう時もあります。

 

 

 

 

どうやら、私の次なる課題は「自分にできることの限度を知る勇気を持つ」になりそうです。「あ、結局、私なんて大したことないんだ」ってどこかで自身に失望してしまいそうで、ちょっと......いや、かな〜り嫌な経験になりそうだけど。

 

 

 

ま、毎朝ジョギングするよりはマシか。我慢しよ。

 

 

 

 

さて、この記事を締める前に、タイトル「Fight! 闘え」の説明を済ませなければ。

 

 

 

私のInstagramでも取り上げましたが、「ファイト!」は私が敬愛している歌手の中島みゆきの歌の一つです。

 

 

 

この歌、高校時代の進路が定まらずふらふらしていた頃によく聴いていました。

 

 

 

当時、私はこの歌が応援歌だと思っていたんですよ。歌の中で何度も使われている「ファイト」という言葉を単純に、日本語の「頑張れ」として受け取っていました。

 

 

だから、

 

 

「頑張れって言っても、目標もない私が何を頑張れるというんだ」

 

 

こんな風に、悶々としながらこの歌を聴いていたわけなのですが、

 

 

 

最近になってようやく、ここでの「ファイト」が「頑張れ」ではなく英語での意味ーー「闘え」として使われていることに気がつきました。

 

 

 

 

中島みゆきの言う「ファイト」は頑張れなんて生半可なものではなく、「生きるためにどこまでも闘え。社会の矛盾、自分自身の矛盾ーーこれら全てと闘う覚悟を持って生きろ」と彼女の歌を聴いた人各々が自らの人生に宣戦布告するのを後押しするために使われた言葉なんです。

 

 

 

 

私の戦いを知らない人は、「なぜ、戦う必要があるの? 争わなくても、生きてゆけるのに」と不思議そうに笑うでしょう。

 

 

 

でも、「闘うこと」と「争うこと」はイコールではなく、闘う人は誰かが生きるためのスペースを占領するのでも他者と人生の優劣をつけるのでもなく、ただ自分という存在を守るために抵抗するんです。みんなもっと、生きることに貪欲にならなければならない。正々堂々と自分のために闘っていいんです。

 

 

 

(ただ、中には「闘い」という名目で「争い」をしてしまう人がいるのも事実ですが)

 

 

 

 

 

「ファイト」の意味を日本語の枠を超えて考え直したおかげで、中島みゆきの歌を更に楽しむことができました。

 

 

 

 

 

  そう考えると、英語という言語を通して私の世界は少しずつ、けれど着実に広がっているのかもしれません。