中島みゆきの「誕生」から学ぶこと。
またまた私が傾倒している中島みゆき大先生(勝手に自分の師匠にしています。すみません)の歌について、お話しさせていただきます。よろしくお願いします。
おそらく私は、中島みゆき先生がリリースされたアルバムの中で、こちらの EAST ASIA が一番好きです。「おそらく」と書いたのは、どのアルバムも大傑作なので「一番」「二番」と優劣をつけることが本当は不可能だと思っているからです。
だから、私にとっての「一番好きなアルバム」というのは、「一番好きな曲が収録されている」ではなく、「一番思い入れが深いアルバム」という意味になります。
では、なぜ EAST ASIA が一番思い入れが深いのか、というと、その理由はとてもシンプルで、このアルバムが私が歌手、中島みゆきを知るきっかけになったからです。
小学三年生だった私は、いつも塾がある日に母の運転する車で送り迎えをしてもらっていました。この時、私は第一次反抗期の最中で母とはよくケンカをしていました。(要因は全て、私の塾での算数の成績)
だから、車内はいつだってピリピリ。乱暴な運転の仕方からしても、母の機嫌が悪いことは一目瞭然でした。(今思うと、危ない......)
一方、後部座席に腰掛けて窓の外を見ている私も怒り心頭。なぜ、母は私の算数の成績しか見てくれないんだ。国語であんなに高得点取ったのに! なんで? なんで!
私と母、二人の間を流れる不穏な空気に耐えられなくなったのか、信号待ちをしていた母が 突如、CD をかけ始めました。
その時に流れた曲が、EAST ASIA。
母とはもう一生、口を利くものか! と決心していた私でしたが、この曲を耳にした途端、思わず「え、これ、誰が歌ってるの?」と声をあげていました。
つられて母も「思わず」といった様子で、「中島みゆきだよ」と平常なトーンで返事をしました。
「この歌、いいね」
「中島みゆきは、あんたがお腹の中にいた時によく聞いてたんだよ」
その日、親子がまともに会話をしたのはこれが初めてでした。
「お母さん、このCD、私にちょうだい」
と母にお願いしたのが、歌を聴いてすぐだったのか、聴いてしばらくしてからだったのか。その点はよく覚えていないけれど、とにかく中島みゆきのEAST ASIA と出会ったことは、私の人生の転換点の一つになったと言っても過言ではないでしょう。
中島みゆきの歌は、本当にたくさんの「生き方」を私に見せてくれました。
聴き始めた頃はまだ9歳だったので、「へえ、こんな風に怒ったり悲しむことが、人生にはあるんだな」とただただ驚き、「果たして私がそれを体験するのは、何年後になるだろう」と想像していたわけなのですが、
EAST ASIA に収録されている歌に関して言えば、それは21歳です。
間違いない。
特にその中の一曲、「誕生」の二番の冒頭、
ふりかえる暇もなく時は流れて
帰りたい場所が またひとつずつ消えてゆく
すがりたい誰かを失うたびに
誰かを守りたい私になるの
は、now です。
この歌は、まさしく「今の私」です。
最近、自分の夢をどこまで追いかけたら良いのか分からなくなることがあります。
果たしてどこまで願望を押し通せば罪にはならないのか。それがよく分からなくて、困っています。
留学して、無事に大学を卒業して、自分の夢を叶えるための挑戦を続けて、そして夢が叶ったら今まで支えてくれた人たちに「お陰様で、ここまで成長しました」と報告するつもりでした。
でも実際は、みんながみんな、そんなに長く待てるわけではないんです。
一昨年の冬、母方の祖父が亡くなりました。
祖父とは、小学生の時に会ったきりでした。
中学受験が終わったら、中学の勉強が落ち着いたら、高校生になってから......。
私は「勉強が忙しいから」「おじいちゃんとおばあちゃんの家は(上海にあって)遠いから」と言って、母方の祖父母を一度も訪ねませんでした。もっと言うと、「訪ねに行きたい」とも思わなかったんです。
それくらい、自分のことしか頭になかった。
高校卒業後の留学経験を経て心にゆとりができた私は、やっと「久しぶりに上海に行って、おじいちゃんとおばあちゃんに会いたい」と思うようになりました。
けれど結局はそれも生ぬるい想いだったようで、私の中にいつも居座っている「今はお金と時間が足りないから、もう少し経ってからにしよう」という考えを追い払うまでには至りませんでした。
そして、「あともう少ししたら、会いに行こう」を続けているうちに、その夢はもう実現できないものになっていました。
母から祖父の死を告げられた時、自分がどのような感情を抱けばよいのか分かりませんでした。
悲しもうにも、長年祖父に会いに行く努力すらしなかった自分がその死を悼むのは、あまりにもおこがましいような気がしたのです。
今まで散々中島みゆきの「誕生」を聴いては、「人はいつかは亡くなってしまうものなんだ」と悟っていたのに、結局私は何もできなかった。ただ人生を悟ったような気になっていただけで、それがどういうものか本当に理解していたわけではなかったのです。
祖父の突然の死と自分の愚かさに当惑しながら、それでも周囲に冗談を言って笑い、「試験終わったら、新しい服が欲しいな」「このレストランでお祝いしたい」だのそんなことばかり繰り返すことで、自分が祖父に対して軽率な態度をとってしまった事実から目を反らす他ありませんでした。
私がそんな調子だったからでしょうか。
去年の冬、今度は父方の祖母がガンを発症しました。
9月に空港まで私の見送りに来てくれた祖母はいつもと変わらず健康そうに見えましたが、その数日後に頭皮に異物を発見して病院まで検診に行ったところ、それが癌腫であることが発覚しました。
「癌細胞が頭皮に発生するという珍しいケースで、更なる進行を防ぐためには頭皮の一部を除去しなければならない」と医師から告げられた祖母は、すぐに頭皮の一部を削りそこに臀部の皮膚を移植する手術を受けたそうです。
「〜そうです」と書きましたが、私はこの話を手術終了後に両親から聞きました。
しかも、手術から2ヶ月ほど経った12月になって初めて、祖母の病気のことを知ったのです。
これには、私の留学生活を邪魔したくないという祖母の願いがありました。
私の一学期の勉強がひと段落つくまで病気のことは黙っていて欲しいと、家族みんなにお願いしていたそうなのです。
でも正直な話、11月に突然、母から電話で「今年の冬は日本に戻って来なさいよ」と言われた時点で、「これは何かあるな」と勘付いていました。12月の航空券は半年前から予約しても高いのに、それをいきなり値段がいくらになってもいいから今すぐ予約しなさいと言ってくるのはおかしい、何か悪いことが起こったに違いない、と疑っていたから、帰国してすぐに空港の駐車場で母から「おばあちゃんがガンになったの」と告げられても大して驚きませんでした。
幸い祖母の手術は成功したので、母方の祖父のように感謝の意を示すのにはもう手遅れ、という最悪の事態を回避できたのですが、それでも現在の祖母はガン再発防止の放射線治療や肺に溜まった水を抜くために入退院を繰り返していて、とても安心できるような状態ではありません。
だからこの夏休みでは、暇さえあればなるべく祖母に会いに行くようにしました。
でも会う度に、
「おばあちゃん、私の夢が叶ったよ。もう一人前だよ。だから、もう心配しないで」
という言葉を未だに口にできない自分の無力さに嫌気が差すばかりで、気持ちは一向に晴れません。
そして、
「大学卒業したら、海外に就職なんかしないで日本に戻って来なさいよ」
と祖母に言われても、素直に「うん、そうだね」と頷くことができない自分も恨めしいです。
夢を理由にどこまでも冷酷になれる怪物、そんなものに私はなりたくないです。
なのに、「きっと、今のこのタイミングでなきゃ、挑戦できない。間に合わない」と、どうしても野望を抱いてしまう。
私は一体どうしたら、いいんでしょうか。
何も解決しないまま、また日本を離れなければならないのが心苦しいです。
先日、祖母がまたしばらく会えないだろうからと早めの誕生日のお祝い、三万円が入った封筒を渡してくれました。
中には、お札の他に祖母からの手紙が入っていました。
そこに書かれていた「ガンになってしまって申し訳ない」という言葉。これが、頭から離れません。
今日は一日中、その言葉に捕らわれています。
謝りたいのはこっちなのに、どうして祖母が謝るんだ。
もうここまで来ると、祖母に対して怒りのような感情さえ湧いてきます。
なんで、おばあちゃんは私にそんなに甘いんだ。優しいんだ。
太宰治の「人間失格」を初めて読んだ時、話の最後で主人公のことを「神様みたいないい子」と言うバーのマダムはまさしく自分の祖母のことだと思いました。
(なんか、中島みゆきの歌で話を始めたのに、太宰治の小説まで出してしまいました。すみません)
今の私は自身も大切な人も、どちらも満足させられない空っぽな存在で、誇れることなんて何一つないのだけど、しかしそれでも、この場で何か自慢できるところを挙げなければならないとしたら、「人の愛情が、どういうものか知っていること」と答えさせてください。
そう信じ続けることで、今は精一杯です。