eve-a60’s blog

ロンドンでの3年間の大学生活を記録したもの。

文章で自分を記録するということ。

 

 

 

「今日は4年に一度の2月29日だよ!(正確に言えば、4年に一度と決まっている訳ではない)何か不吉なことが起こるかもしれない、気をつけて!」

 

 

起床して真っ先に聞いた言葉がこれじゃあな......。

 

母さん、もっと縁起の良い話をしてくれないか。

 

 

なんて、内心苦情を漏らしつつ最近お気に入りの油揚げと野菜の味噌汁を作る。

 

 

汁気を存分に吸い込んだ油揚げの肉厚な舌触りときたら.......たまらない!

そして、液状化する一歩手前まで煮込まれたとろとろの冬瓜を、まろやかな白味噌ベースの汁と一緒に胃の中に流し込む瞬間の幸福感というのも、まったく筆舌に尽くし難いものである。

 

 

(ややこしいので、この先は、文体をいつもの感じに戻しま〜す)

 

 

師走、睦月、如月が特に忙しいのは毎年承知の事実なのに、いざ春を目前にしてみると、竜宮城から帰還した浦島太郎並みに現実世界の時の流れの速さに拍子抜けしてしまう。

 

 

特に今年は英文学科の課題図書が長編作ばかりで、やっと一冊読み終えたと思えばもう2週間が過ぎていたりする。やめてくれ......。

 

 

 

(年間1000冊本を読みます、って熱心な読書家みたいなことを言ってみたいんだけど、私の場合、読むスピードが遅くて無理だわ。1日で長編完読できる人とかって、実は顔に目が5つくらいついているんじゃない?もはや、魔法にしか見えない)

 

 

 

ちなみに、今月読んだ本の中で一番、いまの私の心に響いたのはこちらの一冊。

 

 

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海外での生活経験がある人なら、必ずどこかで共感できる話。

 

 

 

本のタイトルにある「Americanah アメリカーナ」という言葉は多義的で、その言葉を使う人の生い立ちや人種によって、その意味合いがだいぶ変わってくる。

 

 

 

主人公のイフェメヌちゃんは、ナイジェリアの大学がストライキを起こしたことをきっかけにアメリカへと留学するんだけど、そこで初めて自分の人種の複雑さに気づく。

 

 

 

ナイジェリアでは自分が黒人であることを全く意識してこなかったものだから、多国籍なアメリカ社会の中で「Non-American Black」(アメリカ育ちじゃない黒人って意味。ちなみに、アメリカ育ちの黒人だと American Black になる)という新しいアイデンティティを突然与えられて混乱してしまう。

 

 

彼女はやがて、自身のアメリカでの新しい生活をブログに記録してゆくんだけど、読む人によってはブログの内容は全て「黒人の女性による人種差別に対する抗議」と解釈される。また、他のアメリカ育ちの黒人たちからは「あんたは、よそから来た黒人だから、人種について気楽に発言できるのよ。私たちアメリカ育ちの黒人には、そんな自由な発言は許されない」的なことを皮肉混じりに言われる。

 

 

こんな感じで、アメリカ国内ではどこまでも「よそ者」扱いされるイフェメヌちゃんだけど、ナイジェリアの家族や友人からは「Americanah (ここでは「欧米化した人」という意味)」としてみなされる。

 

 

アフリカ英語ではなくアメリカ英語を話し、編み込みにしていた髪の毛をアメリカのビジネスウーマンっぽく下ろしたイフェメヌちゃんは確かにアメリカの文化に影響されているけれど、それは決して「ナイジェリア人でいることをやめた」というわけではない。なのに、他のナイジェリア人からは「Americanah 完全に欧米化しちゃった人」という憧れと嫌味の混じった呼び方をされる。一方で、アメリカ国内の黒人以外の人たちからは、いつまでも「クラス階級では一番下の黒人」という認識しかされない。

 

 

 

アメリカ人にもナイジェリア人にもなれない私は一体、何になればいいの???

 

 

 

本文にこんなセリフなかったけど、おそらくイフェメヌちゃんの心の中、常にこんな感じだったと思うんですよ、私。え、違ってたら、なんかごめん。謝るわ。

 

 

 

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私もね、高校卒業してから随分長いこと日本を離れているものだから、自然と「日本人っぽくない」言動をとってしまうことがあって、(家族含めて)周りから「ヨーロッパ人っぽくなった」と言われたりするけど、一旦日本からロンドンに戻れば自分がイギリス人ではないことをこれでもかというくらい実感するわけで。

 

 

 

別に、イギリス人になりたいわけではないけれど、NOをなかなか言えないが為に誤解を生んでしまう自分に嫌気が差すと「あ〜、どうして私はここに来ても日本語特有の『相手に対する過度な気遣い』をやめられないんだろう。こんなんじゃ、ロンドンでちゃんと生活できない」と自分の日本人らしさを責めてしまうこともあり、

 

 

 

その一方で、自分から「日本人らしさ」が どんどん消えてしまうことへの恐怖を覚えるときもある。

 

 

 

でも一旦冷静になると、「完全なイギリス人」「完全な日本人」ってなんぞや、そこで完全を目指して何になるんだ、と、いちいち自分のアイデンティティを特定の国の名前に当てはめようとする行為事態に疑問が湧く。

 

 

そもそも、留学を考えるずっと前から私は西洋の思想に興味を持っていたわけで、私はヨーロッパ人になるためではなく、自分らしくありたいから渡英したんだった。つまり、多少なりとも私の本質にはヨーロッパの文化に通ずる部分があった、それだけの話。

 

 

 

日本語を勉強している私のイギリスの友達も、日本語を勉強しているから謙遜気味な性格になったのではなく、もともと日本特有の「思いやり精神」を感じられるセンスがあったから、日本文化に興味を持てたんだと思う。

 

 

 

最近、とある人から「英語を勉強するからには、あなたはイギリス人にならなきゃいけない」と言われて、「それは違う」と心の中で反発したことがあったんだけど(口に出して反論できなかったこと、すごく後悔してる)、多分私の考えは間違ってないと思う。

 

 

 

英語を勉強しているからって、自分が日本で培ってきたものを手放す必要はない。だって、自分のルーツを失ってしまったら、私の中には何も残らない。たとえ周りから賞賛されるようなイギリス人らしい振る舞いをマスターしたところで、私は何になれるの?

 

 

 

少なくとも、私は自分の日本人としてのアイデンティティがあるから、Americanah という言葉の意味を人一倍理解できたと思うし、それがとても嬉しい。

 

 

 

クラスメイトにこの本を読んだ感想を話したら、

 

 

「Yuka の話を聞いたら、この本をもう一度読み直したくなった! ありがとう!」

 

 

って言ってもらえた。

 

 

 

いつか、一人前の翻訳家になれたら、この本を訳したいな。

 

(それとも、もう既に、誰かが訳しているのかな?)

 

 

 

 

 

一月越すたびに、私の中で何かが新しくなってる気がする。

 

 

だから、もっと自分を記録することに意欲的にならなきゃいけないね。